所在地・登米郡迫町佐沼字南元丁九三―一
本尊 聖観世音菩薩坐像(光背部共約一メートル)
当寺は大同年間(八〇六.八〇九)の開基と伝えられるが、その由緒・沿革については不明な点が多々あり、若干の伝説や史料をたよりに、これらを整合しつつ考察してゆくほかない。
一説に依れば、奥州藤原氏が隆盛を誇り、平泉一帯は平安初期の天台文化が壮麗を極め、中尊を中心に僧坊は三百を超えるほどであったと云われる。その南端に所在した宿坊の一つが林昌坊と称され、藤原氏滅亡後は尋ねる人とて無く、宿坊は廃絶して草むす寺屋敷のみが残されたと云う。
天正年間(一五七三.)政宗の家臣湯目景康(後に津田と改姓、菩提寺・山形県南陽市・玉田山瑞光寺)が佐沼に居城した。二代頼康の時、正室天真院が夭逝、元禄元年(一六八八)林昌坊を再興、天台宗を曹洞宗に改め「天真山林昌院」と号し、菩提寺として堂宇を建立した。
天真院殿実 全参大姉
寛永六年(一六二九)十月二十四日 二十八歳
茂庭良元女(原田甲斐の正室りつの生母)
後室 清照院殿月 涼江大姉
寛永十六年十月八日
摂州浅田城主女 待女一女殉死 共に林昌院に葬る
また一方『封内風土記』(天保五年三月)には「佐沼郷南方邑、寺風三、天真山林昌院、曹洞宗加美郡宮崎邑、瑞光寺末寺、伝云後光明帝慶安二年(一六四九)山南舜悦和尚開山」という記述がある。
これらを併せ考えると、舜悦和尚が荒れた寺屋敷に移り来たのが慶安二年であるが、本格的に檀家をえて禅寺としての威容を整えるに至ったのは元禄の頃であったと云えようか。
なお、長年無住の時代があったと云われ什物什器等で貴重なものは散逸して皆無に等しい。強いて挙げれば
一、妙鉢 天保十年奉納の銘あり
一、秘仏 道祖神(約三寸)裸像 龕入り
また、旧本堂の造りから当寺の建立時期を推察すると、向拝部に用いられていた虹梁、海老向梁、蟇股などの細部衣装の点を併せみると元禄元年(一六八八)過去帳記録にある建立は妥当と思われる。(昭和五十七年宮城県教育委員会宮城県近世社寺建築調査報告書第九十八集より)
その後、三百五十年、天変地異・春風秋雨の変遷の中に、御先祖の信心浄行に依り、幾度か営繕を重ね住時の姿を維持してきた。
しかし、老朽化、腐朽深まり向の維持・保繕が困難な現状を踏まえ、総代会・役員会に相諮り、この際檀信徒各位のご協力を得て新築すべきとの賛同を得た。早速に建設委員会を結成し、種々協議を重ね、細案を練り五ヵ年敬家工にて東京松井建設株式会社東北支店と工事契約を結び、平成十七年着工、平成十八年六月無事完成、引渡しを受ける。
本堂は耐震性に優れた構造になっており、東日本大震災における被害も最小限に食い止めることができている。改めて、檀信徒の皆様、関係各位の皆様に心より御礼申し上げたい。
思えば、旧本堂はいささかも威厳を感じさせず、むしろ痛々しささえ感じられた建物ではあったが、寺に託された日々の願いや祈りを立派に叶え、弱々しくもなお立ち尽くす佇まいであった。その思いをこれからも忘れることなく、地域に根ざした寺院となるよう日々精進を重ねていきたいと思っている。
助高院高屋浄信居士之墓
関西歌舞伎役者、三代助高屋高助(佐沼大網出身)は名女形として活躍、天保十四年、五十六歳の時耳を患い、故郷の佐沼に帰り、当時流行していた数え唄や甚句おいとこ節に振り付けを指南、この時の「おいとこ踊」が近年正統復活され伝承されている。(町指定無形文化財)
他、郷土先覚者の墓碑等は、改葬移動され諸方に散じて現存するものが無い。
当山世代
当寺開山 | 山南舜悦老和尚 | 慶安二年正月十九日 |
二世 | 勢室南龍大和尚 | |
三世 | 金室林茂大和尚 | |
四世 | 亀洲長鶴大和尚 | |
五世 | 景外碧岑大和尚 | |
六世 | 孤峯則門大和尚 | 亨保十年八月十四日 |
七世 | 放山光端大和尚 | |
八世 | 禅山瑞苗大和尚 | 明和六年十月五日 |
九世 | 知海恵音大和尚 | |
十世 | 光堂元照大和尚 | |
十一世 | 歓山泰音大和尚 | |
十二世 | 慈介全男大和尚 | |
十三世 | 正堂祖来大和尚 | |
十四世 | 真光環中大和尚 | |
十五世 | 快巌存活大和尚 | |
十六世 | 祖道了圓大和尚 | 文化七年六月二十九日 |
十七世 | 寿峯契天大和尚 | 安政三年三月三日遷寂 |
十八世 | 天質白峯大和尚 | 大泉長承寺に転住 |
十九世 | 天山松龍大和尚 | 大正十二年十一月三十日 仙台龍雲院より転住 |
二十世 | 重興天涯亮雲大和尚 | 昭和四十四年三月十一日寂 |
二十一世 | 豊巌亮道大和尚 | 平成二十二年六月五日寂 |
二十二世 | 晥山亮彦大和尚 | 平成二十五年十月十八日示寂 |
二十三世 | 現住 無門亮顕 |
(2010年04月10日 投稿)