位 置
米山町は、西に遠田郡田尻町、南は遠田郡涌谷町に接し、町の西側を取り囲むように旧北上川が流れる低湿地帯であったが、北上川の河川改修にともない、現在の新迫川は町の中央を流れ、藩政時代から、明治、大正、昭和に至るまでの長い開拓時代をへて、美しい田園となっている。又、東は登米町に隣接し、丘陵地帯が横たわる米作中心の町である。
開山及び開基家
当山は登米伊達二代白石若狭宗貞公が、寛永十六年(一六三九)米岡館に隠居し、旧姓の白石に復し、翌寛永十七年(一六四〇)角田市の長泉寺十一世琴庵政文大和尚を開山として請し、法郷山長源寺となし、白石家の菩提寺とした。
白石家は初代宗貞公、二代宗信公、三代貞弘公と続き、貞弘公に嗣子なく、延宝六年断絶、領地と家臣はともに伊達村直(登米五代)に賜うべき旨、沙汰があった。宗貞公が米岡に隠居してから四十年たらずで白石家は断絶した。
白石家の廟所は本堂北側にあり、風化した五輪塔が建っている。又、宗貞公への追腹殉死者の墓石が再建されている。
白石家歴代戒名は次の通りである。
白石刑部太夫若狭宗貞公
○長秀院殿茂林繁公大居士
同室
○本庵妙性大姉
白石右兵衛宗信公
○長源寺殿真庵実庭大居士
同室
○龍雲院殿勝通智公大姉
白石五郎助貞弘公
○桂寿院殿華岩英空大居士
建造物
本堂
二度の火災により仮本堂として使用してきた本堂も老朽化し、平成三年五月十八日再建された。火災のためほとんどの物は焼失し、往時を思わせるものは、本尊釈迦牟尼仏像、白石家三代の霊牌と山門からしのぶほかない。
鐘楼
当時二十五世謙山明道和尚代、明治三十四年、町内桜岡畑崎、鈴木権三郎氏の寄進による梵鐘は、第二次世界大戦時の昭和十八年徴発され、後、子孫の鈴木和蔵氏により、昭和六十一年三月二十一日朽ちた鐘楼とあわせ梵鐘が寄進された。
山門
当寺開基白石家が寛永十六年米岡館に隠居したが、三代で断絶、館の正門としてもちいていたものを、後に長源寺に移築されたと伝えられている。
白山堂
当寺二十六世俊山照孝和尚の勧請による。白山妙理大権現を祀り、一山の守護神である。その後、二十八世俊芳尚賢和尚代の昭和三十四年三月二十五日、町内桜岡鈴根、菅原貞子氏が施主となり、堂宇を新築し面目を新たにした。
毘沙門堂
当寺十五世日秀良護大和尚の建立の堂宇があり、本尊としての毘沙門天像は、二メートル余もある堂々たる尊像である。過去帳によると、亨保元年(一七一六)四月二十六日毘沙門天施主、新田の清蔵とあるをみれば、この人の寄進によるものであろうと考えられる。
千寿堂
平成十年九月十五日新築された堂宇で、千手観音菩薩を本尊とする納骨堂である。少子化時代にともない、子孫の断えた人々のお墓が無縁墓とならないよう建築されたものである。
歴世譜
開山 | 琴庵政文大和尚 | 寛永十八年 示寂 |
二世 | 無堂嶺作大和尚 | 寛永十七年 示寂 |
三世 | 中興広岩頓陽大和尚 | 元禄 七年 示寂 |
四世 | 達外恵通大和尚 | 元禄十七年 示寂 |
五世 | 即真恵性大和尚 | 宝永二年 示寂 |
六世 | 担庵祖翁大和尚 | 宝暦七年 示寂 |
七世 | 舜翁四徳大和尚 | 延享二年 示寂 |
八世 | 橘州暾翁大和尚 | |
九世 | 雄嶽暾英大和尚 | 亨保元年 示寂 |
十世 | 居三良因大和尚 | 天保二年 示寂 |
十一世 | 祖徊宗淵大和尚 | 牡鹿洞源院に転住 |
十二世 | 元翁盧山大和尚 | 文化元年 示寂 |
十三世 | 聯瑞舜芳 和尚 | |
十四世 | 円山順教大和尚 | 天保八年 示寂 |
十五世 | 日秀良護大和尚 | 嘉永二年 示寂 |
十六世 | 良禅礎雄大和尚 | 天保三年 示寂 |
十七世 | 佛宗良温大和尚 | 天保八年 示寂 |
十八世 | 佛歓良哲大和尚 | 登米養雲寺に転住 |
十九世 | 俊麟石柱大和尚 | 港 多福院に転住 |
二十世 | 祖宗良悦大和尚 | 港 法山寺に転住 |
二十一世 | 曹岳良源大和尚 | |
二十二世 | 興道貫隆大和尚 | 小田原高長寺で示寂 |
二十三世 | 天命廓雄大和尚 | 本吉音聲寺に転住 |
二十四世 | 白淳洪山 和尚 | 香積寺東岳和尚の嗣 |
二十五世 | 謙山明道大和尚 | 明治三十八年 示寂 |
二十六世 | 俊山照孝大和尚 | 昭和六年 示寂 |
二十七世 | 俊英文雄大和尚 | 登米龍源寺に転住 昭和四十四年示寂 |
二十八世 | 俊芳尚賢大和尚 | 桃生浄音寺より転住 |
二十九世 | 俊嶺照臣大和尚 | 平成二十年示寂 |
三十世 | 俊岳真隆(現住) |
(2010年04月10日 投稿)